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東京高等裁判所 昭和51年(ネ)333号 判決 1978年9月19日

控訴人(附帯被控訴人) 千葉県

被控訴人(附帯控訴人) 工藤良孝 外一名

主文

原判決中控訴人敗訴部分を取消す。

被控訴人らの請求を棄却する。

附帯控訴人らの附帯控訴を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人(附帯控訴人)らの負担とする。

事実

一  申立

(一)  控訴人

主文一、二、四項と同旨。

(二)  被控訴人ら

本件控訴を棄却する。

(三)  附帯控訴人ら

1  原判決中附帯控訴人ら敗訴部分を取消す。

2  附帯被控訴人は附帯控訴人らに対し各金七四八万〇八一八円ずつ及びこれらに対する昭和四九年三月五日以降各完済まで年五分の割合の金員を支払え。

3  附帯控訴費用は附帯被控訴人の負担とする。

4  仮執行宣言(但し第一項に限る)。

(四)  附帯被控訴人

本件附帯控訴を棄却する。

二  主張

(一)  被控訴人ら

訴外工藤俊一運転の大型貨物自動車落輪の原因及びその後の運行状況についての事実関係の仮定的主張(原判決三枚目-記録一五丁-表二行目から表八行目までの主張の補充訂正)。

訴外工藤俊一(以下、訴外工藤と略称)は大型(日産デイーゼル八トン)貨物自動車(以下、工藤車と略称)を運転して本件事故現場附近に至つたが、本件県道が原判決添付図面No. 0′附近より関宿町方面に向つて左にゆるくカーブしているため、これに沿つて車体を車道左側に寄せたところ、左前後輪が前記左側未舗装歩道部分に落ち、段落境界に接触したまま進行したので、この状態を回避しようとしたところ、車体が右側に飛出し、対向して進行してきた訴外桜井義一(以下、訴外桜井と略称)運転の大型トレーラー(以下、桜井車と略称)と衝突したものである。

(二)  右のほか当事者双方の主張は原判決事実欄第二記載のとおり(但し原判決六枚目-記録一八丁-表六行目に「その時」とある後に「の」を加え、同表一〇行目に「原告チドリ、同良孝」とあるを「原告良孝、同チドリ」と訂正する。)。

三  証拠<省略>

理由

一  本件事故の発生

千葉県東葛飾郡関宿町新田戸六七八番地先道路(南は野田市、北は結城市に通ずる県道結城野田線。以下、本件道路と略称)上において、訴外工藤運転の工藤車と訴外桜井運転の桜井車の衝突事故が発生したことは当事者間に争いなく、成立に争いない甲第一号証、甲第五号証の一ないし四、甲第五号証の七ないし一二、被控訴人ら主張どおりの写真であることに争いのない甲第五号証の六の一ないし二六、原審における証人小暮礼雄の供述により真正に成立したことが認められる乙第二、三号証、当審における証人久保源三の供述により真正に成立したことが認められる乙第一八号証、原審における証人飯野武、同桜井義一、当審における証人久保源三の各供述、鑑定人勾坂操の鑑定の結果を総合すると、

1  本件事故発生地点、すなわち工藤、桜井両車の衝突地点は本件道路上諏訪橋の南方約一〇〇米(道路東側にある東電々柱、北坪七六号の北西約八・七〇米)の東側車線上であること、

2 衝突地点附近の本件道路は、衝突地点の南方約五六米辺、すなわち後記未舗装路肩の始点附近(原判決添付図面No. 0′附近)においてわずかに西にカーブしているほかは直線、かつ平坦なアスフアルト舗装道路であること、

3  本件事故当時、衝突地点附近の本件道路には歩車道の区別はなく、車道の全幅員は五・五五米、東側車線の幅員は二・八〇米、西側車線の幅員は二・七五米で、この車線数、各車線の幅員は、少くとも北は前記諏訪橋に至るまで、南は衝突地点から二〇〇米余の地点まで同一であつたこと、

4  本件事故当時、本件道路の車道西端部に接続して、衝突地点の約五六米南方から衝突地点の約七米南方にかけて、全長約四九米、幅員約二・一〇米の、舗装のしていない(未舗装の)路肩があり、この路肩部分は、オーバーレイ(車道部分の舗装の多層化)により、車道部分より低くなつており、その高低差は大きいところで約〇・一七米、小さいところで約〇・一〇米であり、(この点の認定に反する前掲甲第五号証の四及び証人飯野武の証言は採用し難い。)右未舗装部分の南方には、車道と高低差のない、アスフアルト舗装の、幅員約〇・七〇米の路肩が続いていたこと、

5  本件事故が発生したのは昭和四八年四月二六日午前五時一八分頃であり、その頃、事故現場附近には濃霧が発生しており、視界は約五〇ないし六〇米であつたこと、

6  本件事故当日、訴外工藤は工藤車を運転して、本件道路西側車線を、南(野田市方面)から北(結城市方面)に向い、時速五〇粁前後で進行中、左前後輪を前記未舗装路肩に落輪させ、その後車輪を車道上に復帰させるに際し、勢余つて中央線を越え東側(対向)車線上に進出したため、折から東側車線を対向進行してきていた訴外桜井運転の桜井車の前部に自車前部を正面衝突させ、その衝撃で訴外工藤は即死したこと、

が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない(なお被控訴人らは前記未舗装路肩部分を歩道部分と主張するが、本件事故当時、右未舗装部分が歩道であつたことを認めるに足りる証拠はなく、事故当時未舗装部分は歩道ではなく、路肩であつて現場附近の本件道路には歩車道の区別はなかつたこと前記認定のとおりである)。ところで被控訴人らは、(イ)訴外工藤は前方に対向進行してくる桜井車を発見してこれとすれ違うべく車体を車道左側に寄せたため、自車前後輪を前記未舗装部分に落輪させた、(ロ)もしくは前記衝突地点の南方約五六米辺のカーブ地点でカーブに沿つて車体を車道左側に寄せたため落輪した、と落輪原因を主張する。

前掲甲第五号証の一〇ないし一二、原審における証人桜井義一の供述によると、本件事故前、工藤桜井両車とも前照灯を点灯していたこと、訴外桜井は衝突前、約五一米前方に工藤車の前照灯を発見していることが認められるから、訴外工藤も衝突前に桜井車を発見して左に寄り(落輪する程左に寄るべきではないから、正確には、左に寄り過ぎ誤つて)落輪した、と推測することはあながち不可能ではない。しかし原審における控訴人工藤良孝の供述によつて認められる、訴外工藤は昭和四四年一月、千葉県市川市に本店を置く訴外工藤運送有限会社に入社し、同年六月、自動車普通運転免許、昭和四七年三月、大型運転免許をそれぞれ取得し、専ら貨物自動車運転業務に従事し、得意先への商品の運搬等をしており、本件事故当時も得意先へ赴く途中であつたことよりすると、訴外工藤は貨物自動車の職業運転手として、市川市と同じ千葉県内の本件事故現場附近の道路状況に通暁していたであろうことが推測され、また成立に争いない乙第二四号証、当審における証人田口時義の供述によると、本件事故発生当時のような視界約五〇ないし六〇米の濃霧の場合、自動車運転手は車道の中央線を目安、目印として自動車を運転するのが通例であること(このことは霧などで前方視界が不良の場合、車道左側に寄つて進行することは歩道縁石との衝突、乗上げ、側溝への転落、路肩への進入、歩行者、自転車などとの接触、衝突、道路標識など道路端の工作物との衝突などの危険が大きいこと、換言すれば右のような場合にはいわゆるキープレフトの原則に反してでも中央線寄りに進行する方が安全であることを示唆する)が認められ、これら及び後記の落輪地点と衝突地点との距離関係よりすると、桜井車を発見して左に寄つて落輪(それから車道上に復帰しさらに東側車線に進入)した、との前記(イ)の落輪原因を採るのを躊躇せざるをえず、また本件道路が衝突地点の南方約五六米辺から西(工藤車の進行方向からすると左)にゆるやかにカーブしていることは前記認定のとおりであるが、自動車がその構造上有する直進性からすると、左カーブの場合、左路肩に落輪するには湾曲度をこえて大きく左に転舵することが必要であるから、前記のように本件道路に通暁していたであろうと推測される職業運転手の訴外工藤が、当日濃霧であつたとはいえ前方視界数十米は確保されていた前記カーブ地点で、ゆるやかなカーブの湾曲度をこえ、誤つて大きく左に転舵したため落輪したと推測することにも躊躇せざるをえない。

このように被控訴人ら主張の工藤車の落輪原因(イ)、(ロ)のいずれにも難点、疑問点があつて採用し難く、落輪原因としてはほかにも、(ハ)工藤車は前記未舗装路肩部分にさしかかる前に、前記認定の右路肩部分の南に続く幅員約〇・七〇米のアスフアルト舗装路肩に左前後輪をはみ出して進行しており、そのまま路肩を進行したため未舗装路肩部分の始点で落輪した可能性、(ニ)訴外工藤は居眠り、またはこれに近い状態で工藤車を運転していたため、未舗装路肩部分附近の車道で、無意識下に左に転舵し落輪した可能性も考えられるが、これら(ハ)、(ニ)の落輪原因についても確定的にそれを認めるだけの証拠はない。しかし落輪原因が不明であること(及び落輪について運転手に過失があること)はそれだけでは必ずしも本件道路の設置、管理の瑕疵の不存在を意味するものではないから、次に瑕疵の存否について検討する。

二  本件道路の設置、管理の瑕疵

(一)  本件事故が発生した地点附近の本件道路が控訴人の営造物で、その設置、管理にかかわるものであることは当事者間に争いない。

(二)  被控訴人らは、本件事故が発生した地点附近の本件道路についての設置、管理には瑕疵があり、そのため本件事故が発生した、と主張し、控訴人はこれを争うから以下、被控訴人ら主張の瑕疵事由について順次、検討する。

1  道路が狭隘であつた、との主張について。

本件事故当時衝突地点附近の本件道路の車道全幅員が五・五五米、東側車線の幅員が二・八〇米、西側車線の幅員が二・七五米であつたこと、衝突地点南方の車道西側に沿つて車道と高低差のある未舗装路肩部分が存したこと、本件事故が中央線を越えての正面衝突事故であつたことは前記認定のとおりであり、更に原本の存在及び成立に争いない甲第六号証、第七号証の一、二によると、工藤車の車幅は二・四九米、桜井車のうちけん引車の車幅は二・四六米、被けん引車の車幅は二・四七米であつたことが認められる。しかし右事実からして本件事故当時、衝突地点附近の本件道路が、交通の安全を害する程度に、狭隘に過ぎた、ということはできず、ほかに道路が狭隘に過ぎて安全性を欠くとのことを認めるに足りる証拠はなく、かえつて前記各車線の幅員と工藤、桜井両車の車幅を比較検討すると、両車のような大型自動車でさえ離合が十分可能であること(車道全幅員から両車の合計車幅を減ずると〇・五九米である)成立に争いない乙第二二号証によると、工藤車の左右両車輪の(中心間の)幅は約一・八八米であることが認められ、桜井車の車輪幅も前記の同車の車幅より小であることは経験則上明らかであるから、両車がそれぞれの進行方向に向つて車道左端ぎりぎりに左側車輪を寄せれば、両車の車体間隔は前記〇・五九米より更に大になること、原本の存在及び成立に争いない乙第七号証、原審における証人久保源三の供述によると、本件道路は道路法三〇条一、二項に基づき昭和四五年一〇月二九日公布された現行道路構造令以前に設置された道路であり、同令の適用はないが、本件事故当時の一日の自動車交通量(約六六五二台。なお被控訴人らは一三〇〇〇台と主張するがそれを認めるに足りる証拠はない)及びその所在地域性などからして同令三条に定める第三種第四級相当の道路として管理されていたことが認められ、同令五条四項において第三種第四級の道路の車線の基準幅員は二・七五米とされていることにわが国における国土利用の現状をあわせ考えると、本件事故当時、事故現場附近の本件道路の各車線の幅員は最小限度を満していたということができる。

2  路肩が未舗装であつた、との主張について。

本件事故当時、本件道路の衝突地点南方の車道西側に沿つて存在した全長約四九米、幅員約二・一〇米の前記路肩部分が未舗装であつたことは前記認定のとおりであり、本件道路は現行道路構造令適用の道路でないこと前記のとおりであるが、車道に接続する路肩が舗装されることが望ましいこというまでもなく(同令二三条一項参照)、本件事故後、右路肩部分も舗装されたこと後記認定のとおりである。しかし舗装は当該道路部分の堅牢性確保を主要な目的とするものであるが、前掲甲第五号証の六の一、六によると、右路肩部分は本件事故当時未舗装ではあつたが(その広い幅員と相まつて)自動車が走行、駐停車することが十分可能な程度に堅固であつたことがうかがえ、それにもともと道路を通行する自動車は路肩に車輪をはみ出させることは禁じられていること(昭和三六年七月一七日、政令第二六五号車両制限令九条)、本件事故後路肩部分が舗装されたのは後記のように少くとも本格的なそれはかねての計画に従つたものであることをあわせ考えると、路肩部分を舗装していなかつたことを指して、道路の設置、管理に瑕疵があつたということはできず、ほかに路肩部分の未舗装が道路の安全性を欠くことになるとのことを認めるに足りる証拠はない。

3  車道より路肩が低いまま放置されていた、との主張について。

本件事故当時、前記未舗装路肩部分は車道より約〇・一〇米ないし〇・一七米低かつたこと、工藤車が衝突直前に右路肩部分に左前後輪を落輪させたことは前記認定のとおりであり、前掲甲第五号証の七、被控訴人ら主張どおりの写真であることに争いない甲第一一、一二号証、原審における証人小暮礼雄、原審及び当審における証人久保源三の供述によると、控訴人は本件事故の翌々日である昭和四八年四月二八日頃から右未舗装路肩部分を暫定的に舗装する工事を始め、その約一か月後には、同部分に土盛りして車道との高低差をなくし、本格的舗装をなす工事を始めたことが認められ、他方成立に争いない甲第八号証の一、二によると、諏訪橋を含む本件事故現場附近の本件道路において昭和四七年一〇月一八日以降本件事故までに五件の人身、物損交通事故の発生が警察に報告されており、そのうちの二件(昭和四八年三月一八日、同年四月二〇日発生のもの)は大型貨物自動車が前記未舗装路肩部分に落輪後に発生したものであることが認められる。

しかし原審における証人小暮礼雄の供述により真正に成立したことが認められる乙第一号証、原審における同証人、原審及び当審における証人久保源三の各供述によると、控訴人は昭和四一年、本件事故発生地点附近以南の本件道路に歩道を設置する工事を計画し、昭和四二年、四六年、四七年と逐次部分的に工事を実施しており、本件事故後の舗装工事のうち少くとも本格的工事は右計画に従つてなされたものであることがうかがえ、これと何らかの事故発生後住々にして応急もしくは多少糊塗的な行政措置がなされ易いことをあわせ考えると、前記事故後の工事の事実を道路の欠陥を示す要因として大きく評価することはできず、また本件事故当時の前記一日の交通量からすると前記交通事故発生数は必ずしも多いということはできず、また本件事故直前発生の二件の類似事故例も事故内容が明らかではないからこれに大きな意味をもたせることは妥当でない。これに加えて、

(1)  路肩と車道の高低差は前記のように約〇・一〇米から〇・一七米という程度のものであり、この程度の車道と車道に接する道路部分(歩道、路肩など)または道路附属施設(側溝など)との高低差例はほかに多数存在すること(例えば当審における証人久保源三の供述によると、歩車道を区画する縁石の高さは〇・一五米であること、控訴人主張どおりの写真であることに争いない乙第一七号証の一ないし四九、当審における証人久保源三の供述によると、千葉県内における控訴人管理の道路には車道より路肩などが約〇・一〇米ないし〇・二〇米低くなつている個所が多数存在することがそれぞれうかがえる)、

(2)  右路肩部分は未舗装であつたとはいえ、幅員は約二・一〇米と広く地面も堅固であつたこと前記認定のとおりであり、そのため車両が落輪しても(狭隘かつ地面ぜい弱な個所に落輪する場合と異なり)落輪の車体への衝撃等の影響は左程大きくないこと(現に当審証人飯野武の証言により当時工藤車に装着されていたタコグラフであることが認められる甲第三四号証の一及び前掲鑑定人勾坂操の鑑定の結果によれば、工藤車に装着のタコグラフにも衝突直前の落輪の形跡は現われていない。そして前掲乙第二四号証、当審における証人田口時義の供述によると、車道より約〇・一八米低い路肩に大型自動車が落輪した場合でも左程の衝撃はなく、運転手(特に職業運転手であれば尚更)が狼狽して直ちに車道復帰を行うことは余りなく、通常は減速して前後方の交通状況を確認、判断のうえ、ゆつくり車道復帰をなせば足り、また多くの運転手はそのように行動するであろうことがうかがえる。)、

(3)  工藤車の落輪原因が不明であること前記のとおりであり、落輪地点も必ずしも明らかではなく(前掲甲第五号証の七ないし一二、原審における証人桜井義一の供述によれば、工藤車は衝突地点より約二七米余南方地点で落輪した、と推測されるに対し、路肩部分のタイヤ痕、路肩と車道境部分のタイヤ擦過痕について述べる原審における証人久保源三、被控訴人工藤良孝の供述によると、衝突地点の約四〇米南方地点が落輪地点と推測されるが、前者は濃霧のなかでの目撃証言に基づくものであり、後者についてもタイヤ痕、擦過痕が工藤車のタイヤによるものかどうかについて疑問の余地があり、いずれも採用し難く、更に前記落輪原因(ハ)のようにもし工藤車が未舗装路肩部分以南の舗装道路路肩部分にはみ出して進行していたとすれば、未舗装路肩部分の始点、すなわち衝突地点の約五六米南方が落輪地点ということになる(これを裏付けるだけの証拠はない)、一方、落輪後の訴外工藤の行動にも不可解な点がある。すなわち前掲甲第五号証の四、甲第五号証の六の八、当審における証人久保源三の供述により控訴人主張どおりの写真であることが認められる乙第九号証の二によると、衝突地点以南に残された工藤車の左右後輪のスリツプ痕からして工藤車が未舗装路肩部分から車道に復帰したのは路肩部分の終点(北端)やや手前附近であり、その復帰はゆつくりした右転舵で開始されていることが認められるが(このことは訴外工藤は落輪自体によつては衝撃を受けたり、狼狽したりしていないことを暗示する)、他方、同じ証拠によると、訴外工藤はゆつくりした右転舵で車道復帰を開始し、復帰しようとするのは西側の自己進行車線に対してであるのに何故か急ブレーキをふみ、かつ車道復帰を果した時点において(この時点には対向桜井車が右眼前に迫つているのに)右に急転舵して東側対向車線に進出して桜井車と衝突したことが認められ、この衝突直前の訴外工藤の行動は前記車道復帰開始の行動とも矛盾し、不可解な行動というよりほかなく、このことと前掲鑑定人勾坂操の鑑定の結果により認められる、衝突地点の約一六九二米南方地点からの工藤車は時速五二粁、四八粁、五一粁、四七粁、五三粁、五一粁、五五粁、四七粁と、いずれも前記認定のような視界不良の濃霧のなかでの速度としては高速に過ぎる速度で、しかも加減速を交互に繰返して進行していたこと及び当時は交通量の少ない早朝であつたこと(原審における証人飯野武の供述によると、本件道路の早朝の交通は閑散なものであつたことが認められる)によりすれば、前記落輪原因(二)の居眠り運転の可能性もないわけではなく、いずれにしても工藤車の桜井車との衝突は、工藤車の落輪ではなく、落輪後車道復帰直後の訴外工藤の前記不可解な行動(右急転舵)に基づくものである公算が大であること、

以上諸般の事情を総合すると、本項冒頭記載の車道と路肩との高低差の事実をもつて本件事故の原因としての道路の設置管理の瑕疵ということはできず、ほかに右車道と路肩の高低差による安全性の不足が事故発生の原因となつたとのことを認めるに足りる証拠はない。

4  「幅員減少」、「段差あり」、「道路工事中」などの道路標識を設置していなかつた、との主張について。

前掲甲第五号証の一、二、四、甲第五号証の六の四、五、原審における証人飯野武、同小暮礼雄の各供述によると、本件事故当時、衝突地点附近の本件道路には、右側はみ出し禁止の交通規制がなされ、その旨の道路標識、標示が存したが、被控訴人ら主張の道路標識はいずれも設置されていなかつたことが認められ、右各道路標識がいずれもいわゆる警戒標識であり、控訴人のような道路管理者が設置すべきものであることは、道路法四五条二項に基づき制定された道路標識、区画線及び道路標示に関する命令(昭和三五年一二月一七日総理府建設省令第三号)四条が規定するところである。

しかし前記認定のように本件事故当時本件道路の衝突地点の南方二〇〇米余から衝突地点の北方約一〇〇米の諏訪橋にかけて車線数、各車線の幅員は同一であり、幅員減少の事実はなかつたのであるから、幅員減少の警戒標識を設置する必要はなく(なお本件事故当時、未舗装路肩部分の南に幅員約〇・七〇米の舗装部分が続いていたこと前記認定のとおりであるが、右舗装部分は路肩であつて車道ではなかつたこと前記のとおりであるから、舗装部分に未舗装部分が接続する事実によつて幅員減少が生ずることはない)、また未舗装路肩部分は車道より約〇・一〇米ないし〇・一七米低くなつていたこと前記認定のとおりであるが、それは車道内における土地の高低、凹凸ではないのであるから、車道上に段差あり、凹凸あり、の場合には当らず、その旨の警戒標識を設置する必要もなく、また原審における証人小暮礼雄、同久保源三の各供述によると、本件事故の前日未舗装路肩部分の南端附近で地面をならして砕石を敷く作業がなされていた事実は認められるが、同証人らの供述によると、右作業は極めて小規模のものであり、車道上の自動車の通行には影響がなかつたことがうかがえるから、工事中、あるいは危険あり、の警戒標識を設置しなかつたことをもつて、道路管理上の瑕疵ということはできず、ほかに右のような標識の不存在による安全性の欠缺を認めるに足りる証拠はない。

三  結論

このように被控訴人ら主張の、本件道路の設置、管理の瑕疵、とくに本件事故発生の原因たるべき瑕疵のいずれをも認めることができない以上、これを前提とする被控訴人らの本訴請求はいずれもすべて失当といわざるを得ず、本訴請求の一部を認容した原判決はそのかぎりにおいて不当であり、控訴人の控訴は理由があるから原判決中控訴人敗訴部分を取消し、右の限度において被控訴人らの請求を棄却することとし、他方被控訴人らの請求を棄却した限度においては原判決は正当であり、附帯控訴はいずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 吉岡進 手代木進 上杉晴一郎)

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